生徒に笑顔の大切さを教える

人と人との関係は、出来るだけ円満であって欲しいものです。
人間関係が上手く行かないと感じたり、あるいは、人から嫌われているんじゃないかと気になっている方は、結構多いのではないでしょうか。

例えば、「自分が、自分が」という思いが強すぎたとき、相田に見せる顔は怖ばってしまい、人間関係もギクシャクしてしまう事があるかもしれません。

「和顔愛語」という言葉があります。「和顔」とは和やかな顔、「愛語」とはやさしい言葉です。和やかな笑顔と、愛情のこもったやさしい言葉が、接する人の心をちょっぴり元気にしてくれることでしょう。

大切な人のために、自分に何が出来るのかを考えてみたいですね。その人に対していつも笑顔でやさしくいられたら、そして、その人にも笑顔が戻って、その笑顔の理由に、ほんの少しでも自分が関わっていたら・・・

そんなことが出来たとしたら、とても素敵なことではないでしょうか。

[すみません」より「ありがとう」の心を養う

 私たちは、助けてもらったり、手伝ってもらったりしたときに「すみません」と言ってしまう事が多いようです。皆さんは思い当たりませんか?
 もしそうならば、これからは「すみません」ではなく、「ありがとう」と言ってみてはいかがでしょうか。
 なぜならば、「すみません」と言ってしまうと、決して人の世話になるまいと気負ってしまい、「お互いさまの心」を受け入れにくくしてしまうからです。それよりも、快く世話になり、そのことに気が付いて、一つ一つに「ありがとう」と感謝の気持ちを表す方が、お互いに気持ちがいいと思います。
 「ありがとう」の気持ちで繋がっていけば、一人では抱えきれないようなことであっても「お互いさま」と受け止め合える関係になる事でしょう。
 「すみません」より「ありがとう」と思うようにしていきたいものです。

つまずいてこそ〜出会う (青年期の生徒に説く)

 生きることはとても辛い事だ。お釈迦様の教えも、苦しみに出会った事から始まった。
「もうこれ以上頑張れない。もうこれ以上、1人では抱えられない・・・・」
 
 つまずいた時、迷った時、そのような時にこそ、初めて出会うご縁がある。つまずいた先に、健気に咲く花を見つけたり、仰向けにひっくり返れば、夜空の月がやさしく照らしている事にも気付くであろう。
 
 世界には私達が、いまだ経験していない可能性に溢れている。そして、未知なる出会いも待っている。
 
 つまずき、立ち止まった時だからこそ、普段なら見落としてしまいそうな私達が知らない世界との出会いがあるかもしれない。
 
 つまずいてこそ見える世界や、出会うご縁が、私たちの人生にとってとても大切なものになるかもしれない。

まずは、そこから考えていきたい。

お寺が出来る道徳教育

 仕事や生活に追われていると、どうしても効率やスピードが求められる。1日が、1週間が、1年が、あっという間に感じるのも時間に追われているからであろう。
 
 そんな生活や仕事とは違う、いのちの時間があってもいいのではないかと思う。それは、自分の内側を見つめる為の、ゆったりと流れる時間のことである。
 
 例えば、大切な方を亡くして悲しみに暮れている時、亡き人をしのび手を合わせる時、などが、「いのちの時間」ではないか。
 また、道ばたの小さな花にいとおしさを覚えたり、小鳥の声に耳を傾けたり、それも「いのちの時間」ではないか。
 
 私たちは、悩みに向き合い、静かに考える為に、あせらず、ゆっくりする時間が必要であると空海は言い残している。だが、心の痛みに折り合いをつけ、一歩前に踏み出すには、沢山の年月が必要かもしれない。
 
 お寺は「いのちの時間」がゆったりと流れている場所である。そう思うと、お寺、仏教も捨てたもんではないと感じる。
 教育と宗教は離れがたいものだ。

感動

 私たちや子供たちは、沢山の経験を積むために生まれてきたとキリスト教では説かれている。
子供を持つ経験、親を持つ経験、そして心と心が触れ合う経験。喜びも悲しみも含めたすべての経験が、感動に結びつく事だと思う。
 ですから、この感動を嫌だと思わず、感動を毎日にしていみたいものです。しかし、大人にとっては難しいことである。
 だが、よく考えると子供は感受性が高い為「感動」で成長しているのではないか、と思ったりする。
そう思うと子供もバカに出来ないもんだ。

感謝の心を養う

 この頃、世のありさまをつらつら慮りますに、政治、経済、医療、その他、社会のあらゆる分野で、日々伝えられる様々な出来事に、納得できない思いでおられる方々も多いのではないかと思います。
 世の中には矛盾が沢山あります。辻褄の合わない事が多くあります。正直者がバカをみるような事が少なからず目につきます。
 しかし、もしそのような矛盾にばかり目を向けて、人生怒ってばかりいたら、人の一生は怒りや嘆きの人生となってしまう事でしょう。人一人の人生は、誰のものでもなく自分の人生である。
 納得できないような事態にも、考えてみれば、その中に人生の大きな教訓を見出す事ができるはずである。掛け替えのない自分の人生を、より高きものに導く為には、今生きている事への感謝と、全てのものごとから教訓を得て、それを自分の人生に生かすという心の姿勢を幼い時から教育していくことが大事ではないでしょうか。

欠点は個性の象徴として考えてみる

 欠点が少ないという人はいますが、欠点がまるでないという人は、たぶんいないでしょう。もし、そんな人がいたとするならば、私は「ゴメン」ですね。「欠点」だらけでも困りますが、人は案外、欠点の多い人でも、欠点だらけとは見ないのが普通ではないでしょうか。また、自分では欠点だと思っていても、人はそうは見ない、という事もあります。
「欠点」を2つに分けて考えてみます。身体的欠点と精神的欠点の2つです。
身体的欠点とは、太りすぎ、背が低い、歯並びが良くない、老けて見られる、など、色々あります。精神的欠点となると、性格が暗い、すぐいじける、泣き虫、引っ込み思案、などでしょうか。いずれの場合も、ここに並べた欠点は「本人が欠点と思っている欠点」であると考えます。
 欠点もマイナスにとらえれば、コンプレックスに行き着くはずです。プラスにとらえれば、個性と考える事ができる。
 私は「欠点なんて気にしなくていい」と無謀な事はいうつもりは、さらさらないが、気にするあまり、気が滅入っているくらいなら、思い切って、個性の象徴ぐらいに考えたい。私はこのことが、相手には魅力と映る時もあると考える。だいいち、欠点なんて、きわめて不可解なものではないでしょうか。
 今の時代、国内でも個性重要視の教育が必要になっているから、このことも含めて考えていくのは不必要でないと私は考える。